この記事では幸せになる方法を解説しようと思う。ニートからブラック企業で勤務して精神も肉体も疲れ果てた20代前半。自己啓発的だけど、いま幸せを感じれない人は、きっと役立つんじゃないかな。
このブログ記事を書く数日前、メルマガ読者にアンケートをした。すると人生に絶望している人があまりに多いことに驚いた。気軽にやったアンケートだけど、想像していたよりも重い悩みを抱えた人からの絶望の声をもらった。
「いま不幸で色あせた日常の中で生きている。生きづらい」
そんな声をもらって、私自身の経験と照らし合わせたときに、まったく同じ感覚だった当時を思い出した。視界に拡がる世界がどこかフィクションのようで、現実感がない日常を送っていた会社員時代。
「お金がないから不幸だ」
「お金さえあれば幸せになれる」
幸福になるために、お金を欲していた。お金がないから不幸だと私は頭のなかで思っていた。
だけど気が付いた。「〇〇がなければ幸せになれない」という思考では、死ぬまで不幸のままだ。疲れるだけだ。
なぜ幸せになれないのか。
その答えはシンプル。「〇〇を手に入れたい。そうすれば幸せになれる」そう願って手に入れても、手に入れた瞬間に、幸せは霧散するから。
何かを手に入れても、また別のものが欲しくなる。手に入れた瞬間に幸せは消えてしまうんだ。
高校3年生の時、親に自分用のノートパソコンを買ってもらった。大学合格のお祝いに買ってくれた。ずっと欲しかった。買ってもらった瞬間も嬉しかった。だけど、購入して数日たった時には幸福はかなり薄れてしまった。
「よく考えれば、スマホでもネットできる」
なんで私はノートパソコンなんて欲しかったんだろう、とまで考えるようになった。
でも、こんな経験ってアナタにもあるんじゃないだろうか。
幸せに生きる方法

幸せに生きるためにどうするべきか。「見つけることしかない」と気が付いた。
物を欲しがってもそれはキリがない。お金をもっと稼ぎたいとか、いい車が欲しいとか、いい家に住みたいとか、内心の欲望は誰にだってあるんだけど、モノを手に入れることでしか、欲望を満たせない人は、幸せを手に入れるコスパが相当悪い。
ようは幸せは日常に転がっていることに気が付いた方がいい。
幸せな人生の見つけ方?いや日常を見つけよう

つい昨日、ロシアで徴兵がはじまったというニュース映像を見た。ウクライナに攻め込む余裕がなくなったロシアは国民を徴兵して戦力を増やそうとしている。
ロシア国民からすれば兵隊として駆り出されるわけだ。徴兵から逃れるために、国外脱出をしようする。航空券は売り切れ、国境近くには車で脱出しようと渋滞している状況だ。中には、腕を折って徴兵から免れようとするロシア人まで出てきた。
…地獄すぎんか?
このときに思ったよね。「ロシアに生まれなくてよかった」と。

ロシア人には申し訳ないけど、これは私の本音
しかも戦争で投降すると最長10年の懲役が課される。無理やり参加させられたウクライナ侵攻で気軽に投降もできない。
いまこうして自宅でブログを書いて、ストレスなく働けて、生活ができているだけで私は幸福を感じている。借金もないし、面倒な人間関係もない。生きているだけで幸せ。
自由に働けるだけで幸せ。働けるだけで幸せってコスパよくないか?
幸福や幸せは日常の発見にすぎない。私はそう思う。
夜と霧の哲学:日常の幸せの感じ方

V・E・フランクルの「夜と霧」を大学生時代に読んだことがある。
この本は、ナチスのホロコーストによって収容所に叩き込まれて、いつ死ぬか分からない過酷な環境下で生き抜いた著者の経験が書かれている。
第二次世界大戦の悲惨さではなく、この本の特徴は著者のフランクルが収容所で何をされて、どう感じたのか。その過酷な経験がひたすら語られている。
この本のなかで書かれていたエピソードがある。
著者は収容所で1日1杯の薄いスープのみが渡されるんだけど、運が良ければ、配膳係がスープを鍋の底からすくい上げてくれて、スープの中に数粒の豆が入ることがある。
たったこれだけのことでも、著者は強烈な喜びを感じたそうだ。
つまり、私が言いたいのは人生を幸せに生きるには富や財宝で満たす必要はない。普段の日常の気づき1つで幸せになれるということ。
運動会で熱中症になり死の危機を味わった話
同じような経験を私もしたことがある。小学5年生の夏の運動会。まさに灼熱。
砂ぼこりが舞う運動場、照り付ける太陽。そのなかで私は組体操をさせられたんだけど、もう死ぬかと思ったよね。
ただでさえ暑い運動場で、人間ピラミッド。ほぼ脱水症状の状態で、意識も朦朧(もうろう)としていた。
組体操が終わり、急いで運動場の隅にある蛇口で水を浴びた。醜態をさらして水を飲んだ。

あのときの喜びは今でも忘れない。普段飲む水とはまったく違う。喉に水が通った時、父兄の目を忘れて数十秒間ずっと飲んでいた。
「おそらく、なんだあの子供…」
同級生も父兄もドン引きだっただろうと思う。でも、あの時ほど、水にあれほど感謝したことはなかった。

もう2度と経験はしたくないけどな。
話を戻す。
私のメルマガに登録する大多数は「お金がほしい」から登録してくれているんだけど、幸せを感じるだけなら日常生活でいくらでも感じることができる。
別にマンションを一括で購入して、女を侍らせて、ウマい食べ物を食って、王様のような暮らしをしなくても、日常で幸せは感じられる。
鼻炎で苦しんでいるとき、「鼻で呼吸できることがどれだけ幸せか」を嫌になるほど実感したし、足を骨折したときには、歩くことができことがどれだけ幸運なのかを完治するまで感じた。
もちろん、お金はあればあるほど良い。それはそのとおり。
でも一方で、お金をたくさん手に入れても、日常の幸せを発見できない人は、いつまでも不幸のままだよ。
お金がない絶望への対処法

「日常生活に幸せを見つけようぜ」」
私が言うと、「詭弁だよ」という声が画面の向こう側から聞こえてくる。あなたもこの記事を読んで「キレイごと」と感じた?
その気持ちわかるよ。ブラック企業で深夜まで酷使されて精神を病んでいた当時に、「日常生活に幸せはある」なんて言われたら私もブチ切れていたし、資金が尽きて、実家でニートをしていた頃に、同じセリフを言われても何も響かなかった。
でも、キレイごとかどうかはどうでもいい。だってどんな結論を作っても日常は変わらないのだから。
お金がない生活を楽しめる、その人生で幸福を見つけて生きていけるならそれでいい。耐えられないほどお金がない絶望に襲われているなら、稼ぐしかないよね。
ようはお金が原因で、毎日の生活が不幸なら2つしかない。
- 考え方を変える(日常で幸せを見つける)
- お金を手に入れる(稼ぐ)
このどちらかしかないんだ。ひもじい生活に絶望していて、いまを変えたいと心底思っているだけでは生活は死ぬまで変わらない。
行動するか、考え方を変えるかのどちらかでしか変わらないんだ。
この記事が、あなたの日常を変えるキッカケになれば嬉しい。
せっかく親が買ってくれたのにね。